著盡湘南清絶地♪
★著盡湘南清絶地♪
湘南のみかんの話題から、湘南ってどこって…。
そういえば、子供の頃の湘南と、今の湘南では、エリアも雰囲気も随分変わって
きた。
自分なりに整理してみたいと思って…。
湘南の語源は、大磯にあります。
それは、江戸時代初期1664年に建立された標石。
場所は国道1号沿いで、JR大磯駅への西側からの入口の、その名も鴫立沢
交差点付近。
鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が「こころなき 身にもあわれは しられけり
鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」という和歌を詠んだ地。
時は流れ、江戸時代初期、小田原のういろう商人である崇雪という俳人が西行
法師を慕って、この大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建立し、後に鴫立庵と呼ばれ
るようになる。
鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと
いわれています。
もちろん一般人も見学できます。
※大人100円、子供50円。 9:00~16:00・年末年始以外は無休。
大磯は東海道五十三次・8番目の宿場♪
現在の国道1号大磯、東海道松並木。
では、”湘南”はというと、この崇雪が庵の脇に建立した標石にその名が刻まれて
いるのです。
つまり、「著盡湘南清絶地」という表現。
これは推測の域を出ないのですが、崇雪の祖先の地、中国湖南省にある洞庭湖
のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから、ここを湘南
と呼んだのが起源のようです。
江戸時代初期の頃から湘南と呼ばれるようになり、現在に至る間には、いろいろ
と紆余曲折もあるようですが。
相模の国全体を見渡しても、相模湾を湘工と称したり、湘北、湘央と呼ばれる地域
があったり、”湘”の付いたエリア名とかが点在していますが、湘南という地名は
ありません。
そして、時代は現代に。
湘南電車のカラーリングは、小田原や湯河原のみかん畑をイメージしたオレンジ
とグリーンということになってます♪
真相は色々あるのですが、とって付けたようなこのエピソード…、ぴったり♪
いいんじゃないかな♪
つまり、昭和20~40年代の湘南といえば、文句なく西の方、今は西湘と呼ばれ
ているエリアが湘南そのものだったのです。
当時は相模川より西側、平塚~小田原あたりを湘南と呼んでいたのです。
今、湘南といえば、鎌倉とか江の島とかがメインとなっていて、東は葉山から西は
茅ヶ崎あたり、せいぜい平塚までを指しているようです。
歴史的に考えると、西湘こそ湘南であり、今、湘南と呼ばれているエリアこそ東湘
と呼ばれていいはずなんです。
ま、これは西側は静の湘南に思えるのですが、東側は動の湘南、底抜けにに明るい
湘南ってとこなんでしょうか。
青い海、明るい海と輝く太陽…そんなイメージを求めて、ウエイトが東に移ってきた
のかなって想像してしまいます。
東に移っていった背景として、忘れてならないのは、石原慎太郎、石原裕次郎、
加山雄三、そしてサザンかな♪
それにしても、クルマの湘南ナンバーはというと。
藤沢市~箱根町までカバーしていて、秦野や山北までも…解せないのですが、
陸運局の立地の関係もあって、仕方ないことなんですね。
最近、西湘って言い方も好きです♪
余談ですが、この大磯は高原の別荘地・軽井沢に並ぶ海辺の別荘地でもあった
のです。
明治初期。
政財界、旧公家や大名など蒼々たる顔ぶれ。
150以上の別邸が記録されています。
ウチのご先祖、土佐山内家の別邸は現在は大磯町役場となっていて、その
お隣は徳川家別邸でした。
山内家別邸の北側には三菱財閥2代目の土佐・岩崎弥之助の別邸が広大
な土地を有しており、後に弥之助の姪・沢田美喜がエリザベスサンダースホーム
や聖ステパノ学園として現在に至る。
政財界の、古くは伊藤博文から吉田茂まで8人の歴代首相が大磯に別邸を構えた。
そして、最近はあの西武の総帥・堤氏の豪邸。
堤氏は庭に作ったヘリポートから、東京の会社へヘリコプター通勤していたと
いうから驚き…。
吉田茂は、永田町から私邸に戻る道路渋滞に悩まされ、今の横浜新道を作らせ
たというエピソードの持ち主。
でも、ホントの話です。
・明治政界の奥座敷/大磯町
◆過去記事:
・鴫立亭♪ 2007.11.03
僕は花より団子…、鴫立庵も好きだけど、それ以上に近くの鴫立亭のケーキと
コーヒーが大好き♪
・湘南ゴールド♪ 2007.03.18
◆未来記事
・OISO・大磯♪ 2008.6.28
◆関連サイト
・鴫立庵
・鴫立庵・西行祭
・鴫立庵~碑めぐり
・湘南発祥の地を訪ねて
・大磯・二宮
・東海道五十三次・8番目の宿場
・湘南Wikipedia
湘南電車を代表した113系のラストランの新聞記事
■過去記事
・湘南カラーJR113系ラストラン♪ 2006.03.08
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