宇高連絡船♪
★宇高連絡船♪
今日もはっきりしないお天気。
ちょっと蒸し暑い。
夜には小雨…。
昨夜、探し物をしてたら、絵葉書がどっさり出てきた。
そういえば、昔、写真を撮るのが好きじゃなかった頃、記念にと絵葉書を
買っていた。
それをちゃんと溜め込んでいた…。
高校生時代から惚れこんだあの北海道の絵葉書もいくつか。
その中には道東の「尾岱沼」の絵葉書も♪
買ったこと自体を忘れていた…。
最近は絵葉書って、買わなくなったような…。
自分で感じたままを写真に残したり、はたまた、まるで絵葉書っていうような
光景をまんま撮影したり…。
先日、記事にした予讃線でも、宇高連絡船のことが出ていたが、絵葉書の中
にもあった♪
そんなものまで買っていたのか…♪
宇高連絡船は1988年(昭和63年)4月の瀬戸大橋開通と同時に鉄道連絡船と
ホーバークラクトの運行を廃止した。
僕が四国のおじいちゃんとこに行くには宇高連絡船を抜きには考えられない時代。
宇野線・宇野駅と四国の高松駅間18kmの航路を所要時間1時間で結んでいた。
1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までは客車ごと航送されていた。
1955年5月に起きた濃霧の中での紫雲丸(その後、”死運丸”とも言われた)と
第三宇高丸の衝突事故で紫雲丸が沈没し、乗客168名が死亡した。
修学旅行の小中学生が大半だったとか。
これは、戦後の国鉄五大事故のひとつに数えられている。
僕が赤ん坊の頃、東京から四国のおじいちゃんとこに連れていかれたのは
1955年のこと。
客車ごと航送されてもおかしくないけど、それは一部の限られた列車…。
ま、それはなかったはず。
しかし、この事故がきっかけで客車の航送は廃止された。
貨車の航送は継続したので、あの独特の姿はず~っと見ることができた。
安全輸送強化のため、国鉄四国総局に宇高船舶管理部が設けられた。
そんな時代背景の中、官立無線電信講習所(現、電気通信大学)を卒業して
国鉄に採用された叔父は宇高船舶管理部に異動した。
叔父は船舶レーダー一筋に定年まで在籍していたので、僕が四国に行くときは
必ず、連絡船のとこで出迎えてくれたものだ。
国鉄からJRとなり、瀬戸大橋が開通し宇高連絡船が廃止され残務処理が終わった
ころ定年を迎えた。
宇高連絡船の最盛期、新しい連絡船が4隻、相次いで就航。
小豆島のオリーブをイメージした淡いグリーンの讃岐丸。
阿波踊りの情熱をイメージした真っ赤な阿波丸。
伊予のみかんをイメージさせるオレンジ色の伊予丸。
黒潮をイメージしたブルーの土佐丸。
この四隻は何度となく利用して身近に感じていた。
デッキで食べる讃岐うどんの味も忘れられない…♪
行きは嬉しくてわくわく気分。
帰りは連絡船に乗船した途端、四国の地を離れた思いで急に寂しくなったもの。
そんな絵葉書♪
ウチにはこの四隻の写真がないので、ホントに宝物になりそう♪
・宇高連絡船wikipedia
宇高連絡船といえば、これは語られるべき…。
昭和32年(1957年)、木下恵介監督による『喜びも悲しみも幾歳月』…。
北海道から九州までの灯台を点々とする灯台守夫婦の物語。
両親が四国の出身ということもあり、懐かしさのあまり家族で観にいった。
武蔵小山の商店街に映画館があった時代。
調べてみたら、映画館の料金は大人が100円の時代。
当時、銭湯や映画館の料金は毎年のように値上げしていた。
瀬戸内海の男木島、女木島でもロケが行われた…。
当時4歳の僕…、それでも、いくつかのシーンが思い出される。
宇高連絡船が出航するシーンもあったように記憶している…。
色とりどりの紙テープが乱舞していた。
小豆島のオリーブをイメージした淡いグリーンの讃岐丸(初代)。
昔の連絡船の煙突には「エ」のマークが。
阿波踊りの情熱、赤い阿波丸。
伊予のみかん、オレンジ色の伊予丸。
黒潮のイメージ、ブルーの土佐丸。
連絡船から見える屋島は四国のシンボル♪
叔父は屋島近くの国鉄官舎に住んでいたので、懐かしい。
絵葉書のパッケージもなかなか。
家の中から見つかった絵葉書の一部。
とにかくたくさん掘り出し物が出てきました。
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