総括…
★総括…
晴れ♪
気持ちよい♪
今年は秋が早く来た…。
今夜も月がきれい♪
時間的な違いもあるのだろうが、今夜は低い位置に輝いていたので、
より大きくくっきり。
■
今日のニュース…。
”総括”…。
総括なんて、仕事の中でもよく使う言葉であるが…。
ところが、今日のニュースで使われた”総括”は…。
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中核派活動家2人を逮捕=仲間「総括」か、監禁容疑-警視庁
中核派の拠点「前進社」で5月、活動家の男性が監禁され、屋上付近
から転落して一時意識不明の重体になっていたことが29日、警視庁
公安部への取材で分かった。
公安部は同日までに、監禁致傷容疑で、同派活動家の男2人を逮捕した。
公安部は「総括」と称する仲間内での暴行などが同派内で続いていると
みて調べている。
公安部によると、逮捕容疑は5月上旬、仲間の20代男性を前進社の
建物内に5日間にわたり監禁し、5階の屋上付近から転落させた疑い。
男性は逃げようとして転落。
病院に運ばれ一時意識不明の重体となったが、その後回復したという。
※時事通信より
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…。
ま、こんな具合に使われる。
”総括”、”内ゲバ”(内部ゲバルト)、”つるし上げ”などがおぞましくも
あり、反面、懐かしくも…。
”自己批判”、”バリケード封鎖”なんて言葉もあった…。
ま、一般的な言葉でもあるのだが…。
ラディカルな社会風潮…。
”総括”や”つるし上げ”は普通に使われる。
”内ゲバ”は専門的過ぎて…(?)、今は死語…。
■
総括。
”総括”という言葉には、わざわざ連合赤軍という注釈つきでwikipediaが
あった。
連合赤軍に限らず、当時の学生運動から過激化していったが、やがて
最終局面にきて”総括”による「内部粛清=リンチ=死」と辿り、これが
組織の壊滅へと…。
wikipediaより…。
同士に対するリンチ殺害を”総括”と呼ぶ。
ただし、連合赤軍自身はこれを「共産主義化」と呼んでいた。
というように、かなりおぞましい表現…。
そして。
事件中には「総括しろ!」等の言葉が用いられてはいたが、連合赤軍の
元メンバーらは一連のリンチ殺人やその元となった理論を「共産主義化」
と呼んでおり、「総括」という言葉自体は事件後も左翼団体における通常
の意味で用いている。
さらには。
殺人を正当化する連合赤軍の総括は、23年後に発覚するオウム真理教
の「ポア」との類似性がしばしば指摘される。
■
吊るし上げ。
吊るし上げというwikipediaまで存在している。
旧国鉄で行なわれたものが有名である。
ここでは主に旧国鉄における吊し上げについて…。
職場において一般職員が管理者(管理職)に対し強圧的な態度で
暴言などを浴びせ、恐怖感を与える行為をいう。
1人の管理者に対し複数の一般職員で吊し上げをおこなう場合もあるし
、複数の管理者に対し、それを上回る人数の一般職員で吊し上げを
行なう場合もある。
人数で圧倒するわけである。
机を蹴っ飛ばして凄んだりする場合もある。
要は組合員が管理職を吊るし上げる。
そんな図式である。
さらには、国鉄には動労、国労、全施労、全動労など労組が乱立して
いたので、労々対立も激しく、内通した者、他労組の人間と親しくして
いる者なども吊るし上げの対象となった。
…。
僕らの世代はこれらや、中華人民共和国の文化大革命での紅衛兵
を見て育った。
もちろん、テレビや雑誌で。
国鉄も文革も吊るし上げの極限のような存在。
その上、先輩たちは大学で暴れまくってる。
僕らは中学や高校でこれを実現した…。
ま、かわいい学園紛争。
その典型的なのが、”つるし上げ”…。
生徒会主催…。
体育館に全生徒が集まり、校長や教頭、あるいは学年主任を
つるし上げるのだ。
あと、好ましく思われていない先公(せんこう)は真っ先に…。
多勢に無勢…。
普段、教師に悪態をつくようなヤツはおとなしく見てるだけ。
教師から好かれるような頭のよいヤツが壇上に上がって、
教師を吊し上げる…。
やはり。
立場が一気に逆転する。
教師たちはつるし上げの対象にならないことをただ祈るのみ。
■
…。
総括の言葉に反応してしまった。
内ゲバだけはおぞまし過ぎて、思い出したくないかも…。
ウチの大学も僕が入学する直前までロックアウトや年単位で休講と休校を繰り返して
いた…。
僕が入学して数ヶ月後に学内の学生寮で内ゲバが発生し、
何人もの学生が死んだ…。
警察が学内に。
治外法権同然だった学生寮にも警察が。
いや、”警察権力”が学内を”蹂躙”した…。
あれ以来、我が母校関連の新聞記事から”死亡”という見出しは消えた…。
・総括(連合赤軍)wikipedia
・吊し上げWikipedia
■
自分を振り返る…。
政治的な思惑が溢れる時代…。
1950年代後半、幼稚園の頃…。
父親と乗った都電…。
そこへ、メーデーのデモ隊と遭遇…。
ちょうど60年安保闘争の絶頂期…。
大きな地球儀にへたばる岸信介首相の像…。
そんな壮絶な光景が今も記憶に残っている。
とはいっても、「労働者の祭典」であるメーデーなので過激ではないのだが…。
過激ではないといっても、今のメーデーのように平和で穏やかなものではなく、
ヘルメットを被ってシュプレヒコールをがなり立て、歩くではなくデモ行進。
僕は都電の車窓から身を乗り出すように見ていた。
そうしたら、メーデーのデモ隊の一人が僕に駅弁のような弁当を手渡して
くれたのだ。
父もびっくりしていたが、デモ隊に一礼した。
二人で食べた弁当は本当に美味しかった♪
この頃に見た、忘れられない光景がある…。
大きな駅付近などで見かけた傷痍軍人…。
皆さん、白い着物を着て、軍の帽子をかぶっていた。
戦闘帽というらしい…。
そして、足のない人、両足のない人、片腕がない人…。
アコーディオンを弾いている人が多かった…。
お金を入れてもらう缶などが置かれていた。
裕福でもない父は、よくその缶にお金を入れていた。
そして、「父さんも同じ目に遭っていたかもしれない。」と…。
長いこと、この光景が続いていたが、いつの頃からか見かけなくなった。
小学生…。
地域の「子供会」に入った。
小学3年か4年生だったが、そこのスタッフ、教師は全員が日本共産党員
だということが子供の僕でもすぐに分かった。
真面目を絵に描いたような東大生、関東学院大の教授と奥さんは友人の
ご両親、近所の絵描きのおじさんはブルジョアの生活なのだが、バリバリ
の共産党員で「塾」ではすごく教え方が上手い先生だった。
プライベートでアトリエに遊びにお邪魔すると、毛沢東語録の読み聞かせを教えて
くれたりした。
但し、頭から信じるなということを教えてくれた。
そんな筋金入りの共産党員たち十数人がスタッフとしてお世話してくれた。
週に2、3回の勉強は学習塾がほとんどない時代にはホントにありがたかった。
そして、夏休みなどはあちこち校外学習と称して連れていってくれた。
思想教育などは皆無だったので、親たちも安心して通わせた。
中学…。
中学入学と同時に入部した「社会資料部」。
僕が入部したのを見届けるかのように3年生の先輩がたは引退…。
2年生はいなかった。
5月には自動的に僕が”部長”に…。
顧問は社会科のE教師。
一人部活。
しばらくして、僕のオルグが功を奏して同級生のO君とI君、そして、
Wさんが入部…。
その頃の部活。
駐留米軍の動向を”視察”するのが放課後の日課。
東横線大倉山駅から白楽駅だったか東白楽駅まで…。
そこからバスで岸根へ。
岸根バラック、岸根の米軍野戦病院に視察の毎日…。
自分では買えないような高価な双眼鏡を…。
ベトナム戦争全盛期。
毎日、多い時は百人を超える米軍人が横田基地経由で運ばれてきた。
ヘリポートを双眼鏡で覗くと生々しい光景…。
まさに、そこはベトナムの戦場…。
恐らく途中で死亡したケースも多いだろう。
数歳上の学生だった先輩はココで米兵の死体洗いなどのアルバイト
をしていた。
もちろん、賃金が高いから。
もうひとつの野戦病院、相模大野の野戦病院もフル稼働していた。
一体、何人の米兵が…。
これらのデータや写真を基に…。
僕らはかなり膨大な資料を作成した。
そして…。
数年後、部活の顧問だったE先生は教師を辞め、日本共産党
から立候補して県議に…。
その頃、僕は放送部に入部するようにと、国語の教師から指名。
放送部は普通の部活とは異なり学校側の裁量がかなりのウェイト。
複数の部活と重なってもよいからと。
放送部に入部してみると、陸上部の連中が多い…。
いや、粗野な連中ではなく繊細なヤツら。
そして、陸上部にも出入りするうちにそのまま…。
3つの部活はきついので、2年になってから、社会資料部は退部した。
部長はO君に。
岸根バラックスのゲート。
ここから先は米国…。
いつも、ココで双眼鏡を覗いていた。
フェンスの向こうはアメリカ…。
左側の建物はチャペル。
この辺りも記憶にある。
岸根基地内の兵舎か病棟か…。
そうそう、こんなカッコしていた…。
右側の子…、ゲタ…。
僕も小学校1、2年の頃までは、学校から帰宅すると、ゲタで遊びまわった。
※写真はいずれも”はまれぽ.com”より
高校…。
ノンポリの象徴のような高校…。
そんな学校だったが、一応学園紛争は起こった。
首謀者は生徒会。
裏には彼らのお兄さんたちの影。
某大学で暴れていたお兄さんたち。
彼らとの楽しかった思い出といえば、新宿駅西口地下広場でのべ平連主催の
反戦フォーク集会だった。
ところが、昭和44年(1969年)6月に発生した反戦フォークゲリラ事件で
機動隊と激突したため、以後、集会はなくなった…。
そして、「西口広場」は「西口通路」と名を変え、道路法や道路交通法の適用
をうける…。
以後、この「通路」は立ち止まることは許されず、数十年後、ホームレスの存在をも否定することに…。
フォーク集会の排除にはじまり、ホームレスの排除へと”排除”の歴史でもある。
ま、あの”吊るし上げ”は…。
教師の真の姿が…。
この頃、”いちご白書”をみて感動。
もちろん、”赤頭巾ちゃん”世代である…。
村上龍は数歳上の同世代で、大学紛争とはちょうど入れ違い…。
彼は高校時代、学校の屋上をバリケード封鎖して停学処分に。
彼は佐世保出身。
当時、米軍の原子力空母エンタープライズが佐世保港に入港するにあたり
、反代々木系全学連が抗議し、入港阻止に動いたことに対して、村上龍は
感動し呼応したらしい。
・赤頭巾ちゃん気をつけて PART-2♪ 2014.05.21
・赤頭巾ちゃん気をつけて♪ 2006.09.18
”激動”の1969年に設置された「新宿の目」が50周年の2019年に壊された…。
反戦フォーク集会、反戦フォークゲリラ事件と同じ時期に現れ、その後は多くのサラリー
マンたちを見つめ、ホームレスたちも見ていた。
そんな、あって当たり前の「新宿の目」が壊された。
・座間ひまわりまつりポスター&新宿の目…♪ 2019.07.02
大学…。
超過激を絵に描いたような学校。
「反帝学評」がキャンパスを支配していた。
僕たちは長期に渡る休校中のキャンパスで入試を受けた。
入学したと同時に休校が解除されたが、教授がキャンパスに入ることを阻止されて
などの理由で休講になることも多かった。
僕が入学した後にも内ゲバなどで死亡事件が頻発。
学生寮では多くの学生が亡くなった。
哲学書や左翼関連の書籍を読み漁った…。
大型書店で、そんな書籍コーナーで本を探していると、どこからともなく、
統一教会のお姉さんがスーッと…。
日常茶飯事的出来事…。
これで、かなり釣れた…。
いや、連れていかれた友人も…。
卒業名簿にはなかった…。
どうしてるかな…。
■
高校時代からよく行った北海道。
学生時代の夏休み。
札幌の北24条駅近くの北大生のアパートに泊まったあたりから、誰かにつけられて
いるように感じた。
案の定、逃げられないようにか、帰りの青函連絡船の中で職質…。
確かに僕によく似た学生運動の殺人事件で指名手配犯 K。
東アジア反日武装戦線のメンバーで連続企業爆破事件に関与したとか。
その時は何とか解放してもらった。
ところが、横浜の自宅周辺でも尾行は続いた。
夏休みが終わり、学校に通いはじめた頃から尾行はなくなった。
指名手配犯 K…。
あれから43年…。
黒縁メガネと長髪…、僕もまわりの若者もみんな同じような風貌…。
Kは今も指名手配中で駅や交番にポスターが貼られている。
ま、とにかく物騒な時代ではあったけど…。
独特の懐かしさを感じる…。
※2024年1月26日追記
指名手配犯桐島聡容疑者(70)が神奈川県の病院で名乗り出た。
警視庁公安部に身柄確保されたとのこと。
1975年に指名手配されており、事件そのものは公訴時効が停止されているため、
49年間も指名手配され続けていた。
同じく長期にわたり指名手配されていた中核派の大坂容疑者は渋谷暴動事件で46年
以上も逃亡していたが、2017年に逮捕されたことも記憶に新しい。
これで、一連の学生運動に関連した「指名手配犯」は全て解決したのか…。
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