火曜日…
★火曜日…
晴れ♪
清々しい♪
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尾崎紅葉の『金色夜叉』。
読売新聞に1897年(明治30年)から1902年(明治35年)まで連載され、
紅葉が35歳の若さで死去。
『金色夜叉』は未完…。
後に門下の小栗風葉によって書き継がれた。
今年は連載開始から120年…。
今朝の読売新聞に掲載された記事から。
もちろん、熱海が舞台。
熱海サンビーチには「お宮の松」と「貫一お宮の像」が…。
宮は母親と湯治のため熱海に向かう。
『金色夜叉』の連載が始まった1897年(明治30年)当時、東海道線は熱海
を経由せず、国府津から北上し、内陸の山北を経由するルートであった。
つまり、現在のJR東海・御殿場線ルートが東海道線であった。
東京から行くには、まず国府津まで鉄道で2時間半、小田原まで馬車鉄道で
30分余、最後はレールの上を人力で客車を運ぶ『人車鉄道』に4時間乗り、
計7時間かかった。
そんな不便な熱海ではあるが、江戸時代から有名な温泉場であった街は
西南戦争後、政財界のお歴々らが好んで滞在したり、別邸を建てたりして
発展した。
梅園や熱海御用邸はこの頃に作られた。
人車鉄道としては13年間の短期間であったが、以降は軽便鉄道の熱海鉄道
が担う。
1922年(大正11年)には国有鉄道の熱海線が国府津~真鶴間で開通。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、国有鉄道も熱海鉄道
も壊滅的な打撃を受け、熱海鉄道は全線廃止とする。
1925年(大正14年)国有鉄道の熱海駅開業、国府津~熱海間が熱海線
として名実ともに活躍。
1934年(昭和9年)、熱海駅の先、丹那トンネルが難工事の末貫通。
以後、東海道本線は小田原、熱海を経由する海側ルートとなる。
山北、御殿場を経由する御殿場ルートは御殿場線となる。
ここで『人車鉄道』として紹介されているのは「豆相人車鉄道」のこと…。
1895年(明治28年)~1908年(明治41年)の約13年間。
小田原~熱海間26kmを4時間もかかったうえ、登り坂に差し掛かると、
下等クラスの乗客は人車を押す手伝いをさせられたとか…。
現在の小田原~熱海間は東海道新幹線「こだま」で8分、在来線では
20分余…。
クルマでは30分ほど。
元々、このエリアは文学を語る上では宝庫…。
人車鉄道は国木田独歩の小説「湯河原ゆき」に、軽便鉄道は芥川龍之介
の小説「トロッコ」と、志賀直哉の小説「真鶴」、「軽便鉄道」に描かれている。
貫一・お宮の像。 2016年4月撮影
■関連記事
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・熱海鉄道wikipedia
・意外と熱海駅物語
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