内門(兜門)。
別名、講和条約門とも…。
吉田茂。
明治11年(1878年)、大久保利通が暗殺された年に東京で生まれた。
実父は土佐の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心であった。
もちろん、土佐出身。
吉田茂といえば、僕的には高知生まれだとばかり思い込んでいた。
僕の両親はどちらも土佐出身…。
母方は土佐山内家の末裔…。 といっても、分家だけど…。
土佐の人達は吉田茂を郷土の偉人として扱うので、僕も信じ込んでいた。
昭和22年、新憲法では国会議員であることが首相の要件とされ、また、貴族院が廃止
されたため、高知県全県区から立候補した。
そして、吉田茂の妻は大久保利通の孫娘である。
長州と土佐がくっついたわけである…。
明治17年に養父・吉田健三が大磯に別邸を建てたのだが、吉田茂は
戦後、昭和20年(1945年)よりこの邸宅を本邸として、晩年をこの地
で過ごした…。
昭和42年(1967年)に亡くなるまでの22年間、この大磯で戦後の激動期
を過ごした。
白洲次郎はこの頃の側近である。
あの
麻生太郎元首相、いや、現副総理は吉田茂の孫にあたる。
・
吉田茂 wikipedia旧吉田茂邸。
平成21年3月、火災により焼失したが、平成29年4月、再建され一般公開された。
楓の間(応接間)。
新館2Fの金の間から富士山。
左から駒ヶ岳、神山で右側のなだらかな山は明神ヶ岳。
神山の右側には大涌谷の噴煙が見えるはずなのだが。
噴煙が少ない…。 落ち着いてきたのか…。
眼下には大磯ロングビーチ、海の向こうは小田原方面。
そして箱根の山は、左の松に半分隠れている下二子山、その隣、中央のこんもりと
した山は上二子山、右側の高いのが駒ヶ岳、右端に切れているのが最も高い神山。
応接間棟2Fの書斎。
ダイヤルのない黒電話は官邸直通だったとか。
下の袋戸棚の中に置いていたそうだ。
七賢堂。
元は四賢堂として、伊藤博文が明治維新の元勲である岩倉具視、木戸孝允、
大久保利通、三条実美の4人を祀るために建立したもの。
伊藤の自邸である大磯の滄浪閣の一角に建てられた。
伊藤が亡くなった後、伊藤自身も祀られ五賢堂となる。
吉田茂はこれを自邸に移転させ、西園寺公望を加え六賢となったが、語呂が
よくないとの理由で五賢堂と呼んでいた。
吉田茂没後、吉田自身も祀られ七賢堂となった。
来週2月9日~11日の3日間、特別開扉される。
この周辺には庚申塚のようなものと古い墓のようなものが点在…。
そして、「愛犬ポチの墓」は2つあったので、ポチという名前の犬が2匹いたの
かなとか…。
「愛犬サンチャンの墓」も見つけた。
サンフランシスコ講和条約締結の折り、つがいのテリアを連れ帰ったのだが、
愛犬の名は「サン」と「フラン」。
吉田茂銅像。
サンフランシスコの方を向いているとか。
大磯を愛した吉田茂。
吉田茂が愛した大磯の名物がある。
井上蒲鉾店のはんぺん、新杵の虎子饅頭、國よしのうな重。
井上蒲鉾店のさつま揚げや新杵の西行まんじゅうなどはたまに買い求める。
しかし、國よしのうなぎは敷居が高くて…、でも、食べてみたい。
あと、「まかべのとうふ」(真壁豆腐店)をこよなく愛したといわれている。
サンフランシスコに行く際、こちらの豆腐を持っていくと駄々をこねたという
エピソードも…。
創業明治38年の老舗だったのだが、最近、閉店したとのこと…。
・
神奈川県立 大磯城山公園 銅像のとこからは相模湾が一望。
目の前には西湘バイパス。
大磯西インターの標識も。
2017年10月の台風で崩落した現場は今も復旧工事の真っ最中…。
かれこれ1年半におよぶ大工事(?)…。
上りは2車線が確保されるように改善されたが、下りは相変わらず1車線のみ
の通行となり、このあたりから車線減少するため、土日は渋滞する。
今日も渋滞が発生していた…。
2007年9月の台風で西湘バイパスの大規模崩落が発生。
崩落したメカニズムが解明されないまま…。
”ありえへん”事態に関係当局は時間をかけて復旧させた。
しかし…。
関係者の過剰反応と思われる事態も頻発…。
従来なら何の問題もないような事象にも過敏に反応してしまう現象。
台風一過の素晴らしいお天気なのに、高波に警戒した結果、全線通行止め
を決行して、周辺一帯に大渋滞を引き起こしたり…。
ちょっと迷惑…。
ところが…。
10年後の2017年10月…。
またもや台風によって、同じ区間で崩落…。
今度こそ、面子(メンツ)をかけて復旧工事…。
だからか、既に1年半もかけてる…。
で…。
未だに工事完成予定は公表されていない…。(多分…。)
威信をかけての復旧工事なのだろう…。
・
西湘バイパス、またもや崩落… 2017.10.25
クルマに乗りこんだら、暑い…。
車外の気温表示が15℃…。
車内はもっと暑いはず…。
旧吉田茂邸から国道1号を数分間走ると。
伊藤博文邸であった滄浪閣前の交差点。
ここから日本橋まで69km…。
吉田茂は自邸から官邸、国会までをクルマで行き来していた。
片道70km…。
吉田内閣といえば。
戦後すぐから、バカヤロー解散の翌年、昭和29年(1954年)12月まで…。
当時、クルマが少ない時代とはいえ、横浜市戸塚区の国道1号、
戸塚駅北側「戸塚大踏切」は開かずの踏切…。
ここの大渋滞に業を煮やした吉田茂は踏切を回避するバイパスの建設
を指示したとか…。
そんなバイパス的存在の戸塚道路のことを「ワンマン道路」と…。
その後、戸塚道路は横浜新道とつながった。
僕が小中学生の頃、江の島や箱根への遠足で、横浜新道を通る時、
バスガイドさんが「ワンマン道路」のことを説明してくれたものだ…。
ところで…。
開かずの踏切「戸塚大踏切」は…。
なんと、吉田茂が苦渋の思いをした頃から60年以上を経て、2015年3月
にアンダーパスができたため、踏切は廃止された…。
・
戸塚道路 wikipedia
鴫立庵の隣。
ここでご飯が食べたいと思いつつ12年…。
最初、何の飲食店か知らなかったのだが、鴫立庵の隣ということや、建物
の雰囲気の良さに惹かれた。
店の駐車場が満車だったので、町役場の駐車場(土日・祝日、1回300円)
に駐車した。
他にも行きたいとこがあったので、いつも利用している町役場に…。
そして、町役場の敷地は土佐山内家の別邸跡地なのだ…。
そういう意味ではご先祖さまの匂いがするかも…。
ま、大磯は明治時代、華族となった旧公家や大名、そして、政治家、財界など
のそうそうたる顔ぶれが別邸をかまえた。
そして、伊藤博文から吉田茂まで歴代首相が8人も居をかまえた土地。
・
大好きな大磯♪ - 2 2010.07.17・
明治政界の奥座敷/大磯町の観光情報サイト
湘南発祥の地でもある大磯。
そんな石碑がココにある訳は…。
このお隣の鴫立庵には江戸時代に「湘南」とうたわれた碑があるから…。
石碑の向こうは12年間も憧れてきた「はやし亭」。
最近のコメント