小此木彦三郎、小此木八郎、菅義偉…♪
★小此木彦三郎、小此木八郎、菅義偉…♪
雨…。
涼しいけど、蒸す…。
昨日からずっと雨…。
まだまだ続くらしい…。
九州、西日本…、あちこちで大雨による災害…。
ここ数年、毎年いくつかの豪雨や台風による災害がおこる。
災害から復旧したと思ったら、またもや…。
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小此木彦三郎…♪ 小此木八郎…♪ 菅義偉…♪
高校時代…。
昭和40年代中頃(1970年代)、当時の横浜北部学区から中部学区を通り越して
南部学区の新設高校に越境入学した。
横浜南部学区と川崎学区だけはトップクラスの高校が存在しなかった…。
トップクラスは横浜翠嵐、光陵、横須賀、小田原、厚木で、超トップクラスは
湘南と平塚江南だった。
南部学区にも優秀な高校を…、悲願だったらしい…。
というわけで、南部学区に新設された高校…。
新設高校ということで越境入学枠を大幅に増やしたことで僕たちは救われたのだ。
いわゆる駆け込み寺だった…。
当時、北部学区は偏差値が高く、南部学区は低いということで北部学区のボーダーライ
ン上の生徒を南部学区へ大量に送り込んだというのが正解らしい…。
越境入学した高校に通うため東横線、京急線、市営バスを乗り継いで通学した。
・同窓会♪ 2013.09.08
下表は1972年神奈川県公立高校学区別偏差値。
当時、50校ほどの公立高校…。
「15の春を泣かせるな」…、100校新設計画が動き出した。
わずか15年で100校を新設して計150校となった…。
結果、どうなったかは皆さんご存知のとおり…。
京急線での通学は物珍しいことだらけ…。
伊勢佐木町から路地を1、2本入ったあたりの大岡川沿い。
京急日ノ出町駅から黄金町駅にかけての大岡川沿いの高架から毎朝見た「小此木
彦三郎」の大きな文字。
この辺りは小此木彦三郎の大きな材木店があったのだ。
大きな白い屋根に小此木彦三郎と大きく書かれていて、高校時代3年間、車窓から
見ていたので、この名前は嫌でも覚えてしまった。
大きな屋根に書かれていたと記憶しているのだが、大きなガラス窓に「小此木彦三郎」
と書かれていたのかもしれない…。(半世紀前の記憶なので…。)
まだ選挙権はなく選挙区も違うのだが、あの名前は半世紀経った今も鮮明に覚えている。
神奈川県選出の国会議員は多いが、名前は意外と知られていない。
小泉純一郎、進次郎の小泉ファミリー、河野一郎、洋平、太郎の河野ファミリー、
そして、小此木彦三郎、八郎の小此木ファミリー…。
甘利明や江田憲司も忘れてはいけない存在…。
最近は西湘に行くことが多く、ポスターの多さで「牧島かれん」も覚えてしまった…。
ま、小此木彦三郎の知名度が高いのはあの京急線から見える「小此木彦三郎」効果
だったと信じて疑わない…。
高校を卒業して数年後…。
1975年(昭和50年)、菅義偉総理は法政大学を卒業後、小此木彦三郎衆議院議員
の秘書となった。
1983年、小此木彦三郎が通産大臣就任に伴い菅義偉は大臣秘書官に就任する。
1987年、菅氏は横浜市議会議員となった。
大臣秘書官時代に培った政財界の人脈を活かして辣腕をふるい、「影の横浜市長」と
いわれた。
1991年、彦三郎は梶山さんの事務所を訪ねたが不在であったため、自分の事務所に
戻る際に階段で転倒して頭を強打した。
これが原因で63歳の若さで死去。
以後、三男の小此木八郎が地盤を継いだ。
事務所は中区の小此木家本拠地ではなく、東横線白楽駅から徒歩圏内の六角橋交差点近く。
あまりにも彦三郎の知名度が高かったのと、毎朝、電車の車窓から彦三郎の名前を
見ていたので、彦三郎の名前は出てくるのに、八郎の名前が出てこない…。
同年代の友人たちからもそんな言葉がでてくる。
小此木彦三郎死去により、三男の小此木八郎が地盤を継いだが、選挙制度改革により
彦三郎時代の選挙区は分断された。
八郎と秘書であった菅義偉がそれぞれ別の選挙区で立候補したが、菅は当選、八郎は落選した。
八郎は小選挙区比例代表並立制の導入により復活当選した。
その後、両者の活躍はご存知の通り。
こうやって振り返ってみると、菅義偉総理はナンバー2として活躍していた時期が
何回かあるが、その頃が最も輝いていたようにみえる。
八郎は衆議院議員を辞して横浜市長選に立候補することとなった。
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