四国~♪
★四国~♪
四国はなかなか遠い…。
だからこそ、望郷の思いも強くなる。
冠婚葬祭であたふたと駆けつける場面も…。
あらためて振り返ってみた。
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2001年8月(平成13年) 瀬戸大橋、内子、大洲、道後温泉
2000年8月(平成12年) 瀬戸大橋、箕浦駅、西条、寒風山、四万十川、高知市、
明石海峡大橋
1999年8月(平成11年) 瀬戸大橋、箕浦駅、西条、しまなみ海道、大三島、生口
島、因島、尾道
1998年8月(平成10年) 瀬戸大橋、西条、別子銅山、大歩危小歩危、かずら橋、
徳島、明石海峡大橋
1996年8月(平成8年) 奈良、瀬戸大橋、こんぴらさん、西条、石鎚山ロープウェイ
1995年8月(平成7年) 瀬戸大橋、西条、瓶ヶ森、オレンジフェリー
箕浦駅の上戸うどん♪
大満足の一杯だった。 2023年6月
四国は両親の出身地。
どちらも土佐がルーツだが、その後、愛媛県西条市に移り住むようになった。
父方の実家は伊予西条駅の南側でSLの汽笛や気動車の音が聞こえてくる環境で、
夏は稲穂の匂いがした。
母方の実家は新居群加茂村という地名であったが、昭和31年(1956年)に
西条市に編入合併された。
昭和32年(1957年)、木下恵介監督による『喜びも悲しみも幾歳月』…。
北海道から九州までの灯台を点々とする灯台守夫婦の物語。
父が望郷の思いからか、武蔵小山の映画館にいき家族で観た。
瀬戸内海の男木島、女木島でもロケが行われた…。
宇高連絡船が出航するシーンは紙テープが飛び交い感動的だった…。
当時4歳の僕…、それでも、いくつかのシーンが思い出される。
当時の映画の料金を調べてみたら、大人100円の時代。
それでも、庶民にとっては高値の花…。
映画や銭湯などの料金や物の値段、昭和30年代後半から昭和50年代にかけては
毎年値上げしていた。
もの凄いインフレだった。
良い面もあった、住宅ローンなんてない時代、父が家を建てるため祖父から借りた
数百万円は5年ほどで完済したのだ。
賃金上昇も凄かった時代。
■
昭和30年(1955年)、紫雲丸事故の直後に宇高連絡船で四国へ渡った。
僕は2歳だったが、四国のおじいちゃんの家に預けられたのだ。
1年余の四国暮らしですっかり四国の子に…。
3歳で東京に戻った。
その後、名もなき列車で四国へ連れていってもらったことが数回…。
もしかしたら、夜行急行「安芸」だったのかも…。
当時、四国連絡は広島への「安芸」に併結されて、岡山で分割(解結)されたのだ。
東京駅から伊予西条まで20時間ほどかかった。
夜行急行「せと」から「瀬戸」へ。
昭和38年(1963年)、杉田の叔母や従姉と一緒に寝台急行「瀬戸」で四国へ。
厳密には「ブルトレ」ではないが、個人的には「ブルトレ」そのものだった。
宇高連絡船への乗換えなどをじっくりと見ていた。
この年、舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットして口ずさんでいたことを覚えている。
翌昭和39年(1964年)、小学校5年生の夏休み、同じ愛媛県出身のクラスメイトS君と
二人で寝台急行「瀬戸」で四国へ行った。
僕は伊予西条駅、S君は壬生川駅だった。
壬生川から横浜に出てきて、東横線大倉山駅前で10ヶ月払いの月賦の店を経営していた。
愛媛県今治市は村上水軍と月賦発祥の地といわれるほど。
つまり、クレジット発祥の地。
この旅行が僕を旅好きにさせたのかも。
・SIGNATURE♪ 2007.12.20
■
四国への最大の見せ場でもあり、最大のネックでもある…。
宇野から宇高連絡船に乗換え、1時間の瀬戸内海航路。
高松に着くと、みんな一斉に走り出し、ホームの列車に乗り込む。
夏休みともなると席が埋まり、立ったままの乗客も…。
高松では国鉄マンの叔父が必ず出迎えてくれた。
国鉄マンといっても列車には関わらず、宇高連絡船一筋(レーダー)の人生だった。
逓信省官立無線電信講習所を経て中央無線電信講習所を卒業し、宇高連絡船の
レーダーと船舶無線一筋だった。
卒業後、電気通信大学となり、通信の東大とも…。
叔父が在学中は目黒にキャンパスがあったが戦況悪化により沼津に疎開した。
戦後、目黒から調布に移転し、調布といえば「電通大」というほど存在感がある。
高松駅で出迎えてくれる叔父は正装していることが多かったが、たまに作業着で出迎
えてくれたこともあり、カッコ良くみえた。
幼児の頃から社会人1、2年まで高松港、高松駅での出迎えは続いた。
社会人2年となった昭和53年(1978年)までの記憶がある。
昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開通してからはもっぱら新幹線だった。
但し、新横浜駅は「こだま」しか停まらない時代が長く続いたので、名古屋で「ひかり」
に乗換えるという作業が厄介だった。
また、山陽新幹線が岡山まで開通する昭和47年(1972年)までは新大阪駅から
急行「鷲羽」を利用するなどした。
忘れてならないのは、夜行急行「銀河」。
貧乏学生にとって、夜行急行「銀河」は救世主的存在だった。
昭和62年(1987年)4月、国鉄からJRに移行。
昭和63年(1988年)4月、瀬戸大橋線開業に伴い宇高連絡船は廃止された。
高松の叔父は定年と重なり、以降残務処理についた。
この先、工事中…。
ご迷惑をおかけします…m(__)m
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